ビートたけし=北野武=(72)と協議離婚が成立した幹子さん(68)が14日、報道各社に代理人の弁護士を通じて書面でメッセージを寄せ、「このたび、北野武さんと協議離婚が成立いたしましたことをここにご報告させていただきます」と離婚を報告した。離婚に至った経過や合意内容などに関しては「取材にお越しいただいても、何もお答えすることはできません。」と説明した。書面は「北野幹子」の名前で記されている。
たけしは漫才師だった幹子さんと1978年に出会い、80年に事実婚。83年に婚姻届を提出したが、実は、その年にたけし側が「別れたい」と切り出していた。
87年9月、幹子さんは大阪市内で記者会見し、「最初で最後、きちんと何でも話すので、もうこれ以上、私も子供を追い詰めないで欲しい」と訴えた。会見の1カ月前から2児(小学1年の長男、幼稚園の長女)を連れて実家のある大阪に戻り、たけしとは完全別居中だった。黒いニットのツーピースに黒縁のメガネをかけた幹子さんは、「最初に離婚の話があったのは(昭和)58年から60年の間。本人(から直接)ではなく人をたてて『別れたい』と言ってきた」と明かした。入籍した年(83年)に、離婚を切り出されていたという衝撃の事実が明らかになった。
幹子さんは会見の中で、86年8月、写真週刊誌「フライデー」にたけしの愛人Aさんの写真が掲載され、「そのときに(離婚を)決意した」と語った。長男の小学校受験のため、円満な親子を演じながら面接を受けていたこと、受験が終わったら離婚問題に向き合おうとしていた矢先の86年12月に“フライデー襲撃事件”が発生。87年5月から弁護士を通して離婚について話し合いを始めたことを説明した。
「離婚についてどういう考えか?」と聞かれると、「2人とも納得している」とコメント。「なぜ法的決着がつかないのか?」には「事件が起こって時期を待つうちに延び延びになっている」、愛人のAさんへの思いを聞かれると、「2人の中ではいろんなことを“燃焼”したので、彼女のことで自分が追い詰められたということはない」と返答。離婚の原因については「私があの人の“成長”についていけなかった」と数々の“名言”を残した。
涙はにじませたものの、流すことはなく、終始気丈な姿が印象的だった。
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https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190614-00000192-dal-ent
2019-06-14 14:00:41Z
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