「スター・ウォーズはファンが忖度しながら観るもの」42年にわたる神話はついに終焉を迎えた
昨年末、『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』が公開され、42年にわたる「スター・ウォーズ」の神話が終わった。賛否両論あるとはいえ、最終決戦へと至る後半の盛り上がりや、ルークの故郷である惑星タトゥイーンで終わるラストは、1977年からの最初の三部作や1999年の新三部作からSWを追ってきたファンの感情を揺さぶるものだ。結局のところ「名もなきただの人」ではなかったレイだが、最後まで味方にも敵にも過度にのめり込むことなく美しく孤立する在りようも気高かった。自分はおおむね満足している。
『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』特別映像もっとも、ラストのカイロ・レン=ベン・ソロとレイの唐突なキスシーンは蛇足に感じたし、続三部作のベストキャラクターだったカイロ・レンには、その後の贖罪の旅を描く物語の余白を作ってほしかった。あるいはアダム・ドライバー主演の『マリッジ・ストーリー』(2019)を、幸せな時間とやがて訪れる別れを描いた実質的なエピソード10として見ればよいのかもしれない。妻役がブラック・ウィドウことスカーレット・ヨハンソンなのも、SWとマーベルを傘下に収めたディズニー・ユニバース感がある。
……ということで、映画ライターの高橋ヨシキとライムスター宇多丸がTBSラジオ『アフター6ジャンクション』放課後クラウドのなかで「SWはファンが忖度しながら観るもの」と楽しく認定していたように、各自が脳内補完して受容するのがよいのでは? 「エヴァンゲリオン」も「ガンダム」も「マーベル」も、時代や設定の矛盾や空白をファンが想像して楽しむものでもあるわけで。筆者は、エピソード7から9までのSWを「国や家族といった集団のなかで『個』として生きることの困難と希望」を描く物語として脳内補完している。
『スカイウォーカーの夜明け』と同日、話題作『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』も公開
空白を埋めるという意味で興味深かったのが、『スカイウォーカーの夜明け』と同日に公開された片渕須直監督の『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』だ。2016年に公開された『この世界の片隅に』では描かれなかった原作エピソードを加えた本作を、監督は「(制作にあたって)うっかりすると『完全版』と言う人がいたので、それはちょっとちがうと思っていた」「前回の映画は(略)ある種のドキュメンタリー的な風味があったと思うんですが、今度の映画はもっと文芸的というか、もっとすずさんの固有の内面のドラマが支配している作品になってるんじゃないかなと」と、いくつかのインタビューで述べている。
映画『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』予告編待望の公開となった『さらにいくつもの』を観たいま、これらのコメントには完全に同意できる。メインビジュアルに背中合わせのすずと、呉の遊郭で働く白木リンが採用されているように、本作では前作になかった少女時代からの2人の奇妙な関係と交流に時間を割いて描かれている。すずとリンがどちらも「鈴」を想起させる名前であることは、原作の大きな主題であった「代用品」にも関わっていて、すずから見たリン、リンから見たすずは、それぞれがそれぞれにとって「ありえたかもしれない別の可能性の自分」として生きているのだ。
すずとリンだけではない。様々な視点での「いくつもの片隅」を描き切る
だが、約167分に生まれ変わった姿を見たとき、本作にはもっと多くの人々と世界の視点が新たに散りばめられていたことがわかる。すずとリンを結ぶ北条周作、貧しい家庭の事情がなければすずと結ばれるかもしれなかった水原哲、リンと同じ遊郭で働くテル、北条家のなかの他者として世界の複雑さを示す小林の伯父と伯母。また、敗戦後に遅れてやって来た神風として北条一家に転機をもたらす枕崎台風、原爆投下後の広島に救援に行き被曝したご近所仲間の知多さんがゆっくりと歩く姿(「原爆ぶらぶら病」と差別的に言われた後障害を示している)も、前作における時代・文化考証の驚くべき精緻さに加えて、今回は、その整地さがどのような心身の変化を登場人物にもたらしたのかを豊かに伝えている。
このような豊かな「いくつもの片隅」は、原作が持っていた多視点性を再発見するものであると同時に、やはりこの作品がすずという「個」が見た(そして失われた右手で描いてきた/描こうとした)世界なのであったことを強調する。すずと義姉の径子に焦点を置いた前作のシスターフッド映画としての完璧さを認めつつ、すずの変化が、まさに世界そのものの複雑さによってもたらされたことを丁寧に贅沢に描いた『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』は一つの奇跡だ。
予算獲得に苦戦した前作が、片渕監督と真木太郎プロデューサーの「もう1本の映画をつくる可能性をきちんと確保させてもらえるなら」との約束によって当初の意図とは違うかたちで生まれたのは、日本の映画制作の不遇を伝える挿話ではあるが、こうして1つの作品が2つの可能性を示すものとして我々の前に現れたことは幸福だろう。作品を繰り返し作る/観る経験には、このような豊かさが潜んでいるのだと、じかに接して知ることができたのだから。
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2020-01-20 04:04:00Z
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